織田歯科院長の日記
横田の渡しの常夜燈のところまでやってきました。このあたりでは横田川と呼ぶようですが、しばらく行くと琵琶湖に注ぐ大河?野洲川をここで当時は渡っていたようです。対岸までは200メートルぐらいはあるようです。今は橋も勿論渡し舟もなく渡る手段がありません。地図を見ると現代の橋はJRの三雲駅近くに掛かっているようです。大分来た道を引き返さないといけないようです。
現代の橋を渡ります。
橋の袂にお兄さんが変わった車を置いて休憩中でした。個性的だったのでお願いして写真を撮らせてもらいました。アメリカ製だそうです。「大人の三輪車」やね。童心忘れないのは大いに結構!
横田の渡しの対岸に着きました。写真では分かりにくいですが、巨大な常夜燈が建っています。その際には説明板があります。
「東海道横田渡常夜燈 この巨大な石灯籠は、文政五年(1822)増加する旅人の目印になるよう、東岸の川岸に地元や京都・大坂を中心とした万人講中の寄進によって建てられたものです。その高さは10.5メートル、燈火を灯す火袋は大人も通れるほどで、道中でも最大級のものとされています。・・・」記されています。
川の渡し側から見ると、太い市道に横切られている細い小道が続いてます。この小道が旧東海道、変哲ない小道が何百年も続く幹線道だと思うと私は感慨深くしてしまうのです。
小道脇には、イミテーションながら一里塚が設置されています。この一里塚を撮影中、通りがかりのおばさんに「ご苦労様です」とお声掛けいただきました。自分の楽しみのために歩いたり、写真を撮ったりしているのにそのようにお話しいただき申し訳ないような気持ちになりました。
しばらく行くと、昔の街道の再現のねらいでしょう、松並木が見られます。傍の案内板には「北脇縄手と松並木」の解説がしてあります。「東海道が、一直線に伸びるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲がりくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しのよい道路としたことにちなむと考えられる。江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。・・・」と書かれています。
いつの間にやら水口に到着していたようです。どこが宿の入り口かよく分かりませんでした。美しいバランスの取れた形態の教会の前を通過しました。近代建築の黎明で有名なヴォーリズの設計とのことです。
水口には曳山のお祭りがあるようです。お祭りの準備かと思ったら、片づけだそうです。
この続きは、またお近いうちに・・・・。
PR
この記事にコメントする