織田歯科院長の日記
朝6時30分、京都三条をを発ち、草津の本陣に13時30分に到着しました。江戸時代の旅人は男性なら一日十里(約40キロ)歩くのが一般的とされていたらしいです。 三条から草津までで、26キロ、草津の次の宿場石部まで歩くと37.7キロです。当時は「京発ち石部泊まり」といわれ京を朝発つと1泊目石部泊まりが当時の標準コースです。当時の人と競争するわけではないですが、出来れば今日は、あと11.7キロを歩いて石部までの到着したいと思います。


さて、草津の宿場には追分がある。追分とは「分岐点」現代的にはジャンクションと呼べるものでしょう。草津追分にはそれを示す立派な道標が現存しています。道標脇の立派な石の説明板には「道標 右東海道いせみち 左中仙道美のじ 一基 ここはかつての日本五街道の最幹線で東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまではこの上の川を越せば中仙道へ右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地でこの付近は追分とも言われ、高札場もあって旅人のとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って文化十三年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので高さは一丈四尺七寸(4.45メートル)で火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上は、たびたびの風害によって取替えらたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜灯だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている」と記されています。私もおかげさまで道に迷わず道標どおり右折して東海道を下ります・・。


ほんのしばらく行くと草津宿出口の道標に出会います。案内板には「草津宿の江戸方の入り口でありました草津川の堤上に建つ火袋付石造道標です。総高は約3.9メートルを測り、日野の豪商中井氏の寄進によって文化十三年(1816)三月に建てられました。竿には 右金勝寺志がらき道 左東海道いせ道 とそれぞれ行き先を刻んでいます。なお、道標はかつて道を挟んで北側にありました」とあります。道標どおり左に曲がり天井川の草津川をわたる小さな橋があるのでわたります。そうすると景色は一転し、いかにも旧街道と言える古い家並みの間を旧街道そのままの幅の道が続きます。当日、朝はすっかり晴れていましたが草津宿に着く頃には曇り空、そして草津宿を出る頃には時々ぽつぽつと雨が降り出しました。うっかり雨など考えもせず、傘を持たずに家を出てきました。濡れたくないと気はあせるんですが、石部はまだ10キロ以上先です。どうなることやろー。
さて、草津の宿場には追分がある。追分とは「分岐点」現代的にはジャンクションと呼べるものでしょう。草津追分にはそれを示す立派な道標が現存しています。道標脇の立派な石の説明板には「道標 右東海道いせみち 左中仙道美のじ 一基 ここはかつての日本五街道の最幹線で東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまではこの上の川を越せば中仙道へ右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地でこの付近は追分とも言われ、高札場もあって旅人のとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って文化十三年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので高さは一丈四尺七寸(4.45メートル)で火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上は、たびたびの風害によって取替えらたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜灯だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている」と記されています。私もおかげさまで道に迷わず道標どおり右折して東海道を下ります・・。
ほんのしばらく行くと草津宿出口の道標に出会います。案内板には「草津宿の江戸方の入り口でありました草津川の堤上に建つ火袋付石造道標です。総高は約3.9メートルを測り、日野の豪商中井氏の寄進によって文化十三年(1816)三月に建てられました。竿には 右金勝寺志がらき道 左東海道いせ道 とそれぞれ行き先を刻んでいます。なお、道標はかつて道を挟んで北側にありました」とあります。道標どおり左に曲がり天井川の草津川をわたる小さな橋があるのでわたります。そうすると景色は一転し、いかにも旧街道と言える古い家並みの間を旧街道そのままの幅の道が続きます。当日、朝はすっかり晴れていましたが草津宿に着く頃には曇り空、そして草津宿を出る頃には時々ぽつぽつと雨が降り出しました。うっかり雨など考えもせず、傘を持たずに家を出てきました。濡れたくないと気はあせるんですが、石部はまだ10キロ以上先です。どうなることやろー。
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一里塚を過ぎて、またお寺を通過、このお寺ではきれいなイラスト付きの掲示がされていいる。「お釈迦さまの御教え 世界に一つだけの尊い命 一人一人が違っていいのだ」イラストのお坊さんの吹き出しには「心豊かな人生はナンバーワンではなくオンリーワンなんだよ!!」記されています。自分自身の存在感を過小評価せざる得ないところに自分自身を追い込んで息苦しい思いをしている人が多いのは何も現代社会に限らないということでしょうし、少々時代が変わっても根源的なところでは人間そんなに変わらんよ、と教えていただいているのでしょう。
ここまで歩いてきた間にもブログに記さなかった所も含めて、街道筋で出会うお寺や神社の数は驚くほど多いです。当時は檀家台帳が住民登録であったことなど宗教施設が行政機関の出先機関であったことを考えても多い。当時の人がそれまで連綿と続いた信仰をよりどころとして暮らしていたのでしょう。翻って現代は今一番信じられているのは「科学」でしょう。昨日の常識が明日の発見・新しい常識で覆される「科学」、時代の波に取り残されないように、あくせくあくせく暮らさないといけないようにも思えます。そう考えると現代の方が昔より幸せとはいえないのではないでしょうか?また、時代は移ろいでも、昔の街道筋ほど人が行きかってなくても、街道筋のお寺や神社は現存しているのは事実だし、掲示されている言葉に深く感銘を受けることもまた事実です。このような事実から人の悟るべきことは昔も今も不変であることを知ることが出来るのは、このような歴史街道を歩く旅の効用だと思います。
途中、現代の幹線、新名神道や1号線のバイパス、開発盛んな新市街地などに出会い。しばしば、旧東海道を見失いそうになるが、なんとか旧街道を見つけることで草津宿に到達した。見失いそうになった時、旧街道を見つけるコツは、歩行者や自転車、商店を辿ることだと知りました。そう現代の道は人が歩いてないのだ。新道では皆車に乗って移動している。そしてお店は巨大な駐車場を持つ大型店ばかりだ。現代人は歩かないというのが特徴のようだ。・・そういう私も、普段は車に乗るんだけど・・・。
草津の宿の入り口あたりには写真のように「御旅館」なんて、大きく黒書したシンプルな看板が数枚ある。失礼ながら、建物外観は昔の旅籠のままと言ってもよいでしょう。今でも泊まれるのでしょうか?泊まる気ものないのに、興味本位に聞くのは申し訳なくそのまま行き過ぎました。
草津本陣前まで来ました。旧東海道で唯一現存する本陣だそうです。本陣内は見学者に開放されています。江戸時代の頃そのままに本陣入り口には「松平出羽守宿」と墨書きされた立札が掲げられている。出羽守様が今夜はお泊りのようです。
大津の宿を離れると、閑静な住宅地となったところを旧東海道は通っている。

そのいわれは分からぬが、立派な神社太田神社脇を通る。大分散っているが、鳥居を覆うように桜の花が咲いている。見事だ。
更に大養寺脇も通る。お寺の入り口には黒板があり「苦しみを嘆く人あり 苦しみを活かす人あり」とよい言葉が書いてある。苦しみに出会うたびこの言葉を思い出したいと思う。



そばの掲示板には「人という字をみてごらん 両方がささえあって立っている 生かされ生かして生きている」とある。なるほどそうだ、読みやすい感じのよい字で書かれているなぁ。

さらに歩いていくと、古風な商店を見る。さすが湖国、魚釣道具と結納用品が一つの店舗で扱われている。

瀬田の唐橋が近づく頃、風変わりな意匠の建物を発見した。なんとなく中華風の建築だ。中華料理店かと思い、確かめてみると個人のお宅でした。


瀬田の唐橋を渡る。堤防の桜が川面に映えていた。

大津と草津の中間地点あたり、一里塚跡と記された大きな石碑があった。
「一里塚跡 一里塚は徳川幕府が旅人の目印に江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。ここにあった一里塚は、東海道の大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。その場所は旧道と広い市道の交差している地点にあります。現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています」と記されている。実はこの地域市街化が進み、旧街道よりは立派な通りが錯綜して東海道を見失いそうでした。この石碑のおかげで今歩いている道で間違いないことを改めて確認出来ました。一里塚そのものは現存しないものの、あったことをことを大切に思い、このように立派な石碑が建てられていることは意義あることと思えます。
そのいわれは分からぬが、立派な神社太田神社脇を通る。大分散っているが、鳥居を覆うように桜の花が咲いている。見事だ。
更に大養寺脇も通る。お寺の入り口には黒板があり「苦しみを嘆く人あり 苦しみを活かす人あり」とよい言葉が書いてある。苦しみに出会うたびこの言葉を思い出したいと思う。
そばの掲示板には「人という字をみてごらん 両方がささえあって立っている 生かされ生かして生きている」とある。なるほどそうだ、読みやすい感じのよい字で書かれているなぁ。
さらに歩いていくと、古風な商店を見る。さすが湖国、魚釣道具と結納用品が一つの店舗で扱われている。
瀬田の唐橋が近づく頃、風変わりな意匠の建物を発見した。なんとなく中華風の建築だ。中華料理店かと思い、確かめてみると個人のお宅でした。
瀬田の唐橋を渡る。堤防の桜が川面に映えていた。
大津と草津の中間地点あたり、一里塚跡と記された大きな石碑があった。
「一里塚跡 一里塚は徳川幕府が旅人の目印に江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。ここにあった一里塚は、東海道の大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。その場所は旧道と広い市道の交差している地点にあります。現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています」と記されている。実はこの地域市街化が進み、旧街道よりは立派な通りが錯綜して東海道を見失いそうでした。この石碑のおかげで今歩いている道で間違いないことを改めて確認出来ました。一里塚そのものは現存しないものの、あったことをことを大切に思い、このように立派な石碑が建てられていることは意義あることと思えます。
三条大橋を朝6時30分に発って、一つ目の宿大津までやって来た。時刻はまだ9時30分。朝が早いと時間の経つの遅いぞ。
大津の宿と云えば?上方落語の「こぶ弁慶」の舞台であるが、当然ながら現代では喜六・清八が泊まったような面影はあまりない。でも歴史ある落ち着いた雰囲気の商店街である。
宿にあるお寺にこのような張り紙が「時機相応 親鸞聖人 仏法の教えによって利益をいただき得るのは時代とその時代に生きる人々(根機・性能)に相応せねばならないと説かれている。現在は社会変化が著しく私たちは対応しがたい。この不適応から、昨今の相次ぐ悲惨な事件に見られるように、不安不満がつのり悩み苦しみとなっている。こうした末法の時代といわれる現在、時機相応の信心として他力本願の信心が求められる由縁である」と記されている。到らぬ私には、判らないところもあるが「なるほど」と感じ入りながら歩を進める。
山科を過ぎる頃、「東海道」なる石標の後ろには、なにやら溝の入った石版が隠して??あるよ「車石」だそうです。説明板には「昔の東海道の逢坂山科と日ノ岡峠は、雨が降ると道がぬかるんでしまい、多くの物資を積んだ牛車にとって、通行が大変困難でした。京の心学者脇坂義堂は、文化二年(1805)に1万両の工費で、大津から京都三条大橋にかけての約12kmの区間に、牛車専用通路として、わだちを刻んだ花崗岩の切り石を敷き並べました。わだちの中に車輪を入れることにより、牛車の通行は大変容易になりました。この石を車石と呼んでいます」つまり昔の路面鉄道?ですね。昔の人の苦労が偲ばれます。
そのうち、東海道は現代の幹線1号線に吸収されるように合流。あれれ!東海道が消えちゃったよ。と思えば、ちゃんと旧街道は幹線を歩道橋で越えた向こう側にあるよと、教えてくれる看板が設置されています。
歩道橋から見下ろす現代の大通りは「太いなぁ」とすっかり気持ちは江戸時代人になっています。
車の行きかう1号線の脇には、舗装こそされているものの昔ながら道幅と思える街道がのどかに通っています。旧街道には丸型ポストが似合うようです。そして滋賀県との県境を通過です。
しばらくのどかな道を行くと、逢坂の峠に達します。旧街道らしき道は消えて1号線の歩道を歩かないといけなくなります。
1号線への吸収から、わずかに免れた旧街道らしい部分には「日本一のうなぎ屋」があり旧街道賑やかな頃の浮世絵を看板して飾られています。
沿道にはお寺への専用踏み切りもあります。何かふしぎな感じ。
逢坂山の関の碑と逢坂常夜灯を見て峠を下れば大津の宿に到着です。