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織田歯科院長の日記
石薬師を過ぎて次の四日市宿を目指して旅を続けます。


 
江戸の頃からの並木かどうかは判りかねますが、その頃にタイムスリップしたかのような(ちょっと大げさ!!)並木もありました。


追分饅頭なる和菓子のお店の前も通過します。追分とはご存知、昔のインターチェンジです。


伊勢へ向かう伊勢街道と京へ向かう東海道の分岐点です。こんもりした植え込みと立派な石碑がありました。


街道探訪の多人数のハイカーの団体さんともすれ違いました。


近鉄内部線を横切ります。駅の名前も追分駅です。この写真ではわかりにくいですが、いつも見る電車の線路より幅が狭いようです。


沿道に大きな松があります。私はこんな大きな松過去に見たことありません。枝振りもなんどもうねっていて、おかしな表現ではありますが「超巨大な盆栽」です。


根元の説明板によると「東海道名残りの一本松」だそうです。沿道多数植えられていた松のうち、ただ一本生き残った貴重な松とのことです。この木の生命力の強さを感じない訳にいきません。


家々の間から、先程横切った線路を走る電車が見えました。いつも見かける電車より一回り小さいかわいらしいものでした。色もパステルカラーで遊園地のようでほのぼのします。


2百年以上製薬業を営み現在も薬局を開業する旧家を見ました。


東海道が、大きな通りを横切ることになりました。四日市の駅前通りです。四日市って大都市だったんですね。失礼ながら知りませんでした。


駅前大通りを横切りますと、東海道はそのまま商店街のアーケードになっています。


商店街には桑名名物の志ぐれ蛤屋さんもあって、桑名も遠くないようです。もうひと頑張りしましょっと。 ということで、この日の旅の続きはまた明日記します

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井田川は亀山宿と庄野宿との間にあります。では東海道を下ります。

・・・安楽川に架かる和泉橋を渡ります。


川俣神社脇を通ります。このあたりには川俣神社が三社あるようです。このあたり安楽川と鈴鹿川が合流するあたりです。その昔は氾濫する川を静めようと神社が設置されたのではないでしょうか。これは織田の勝手な想像です。

どこからが庄野宿になるのか判らないうち庄野本陣の案内標識に出会いました。今は庄野集会所となっています。


向かい側には宿場らしい連子格子の建物がありました。

 
 ほんのしばらく行くと「清酒・庄野」の看板をつけた店屋の建物がありました。
看板はきれいなので最近まで酒屋さんがあったのでしょう。その昔はここで酒造もおこなわれていたのでしょうか。看板にある「基本醸造」とはなんでしょうか?

 
 庄野宿の案内看板がありました。看板によりますと、安藤広重描くところの「庄野の白雨」は彼の作品の中でも傑作中の傑作だそうです。そういえば美術の教科書で見たように思います。


 次の宿、石薬師を目指し歩きます。道を間違えそうなところには小さいながら案内板が設置されています。


今日は私と同じように東海道を楽しむ方もちらほらおられます。今の気候なら楽に歩けます。


はるか手前からはっきりと一里塚が見えます。説明板によりますと石薬師の一里塚というそうです。「くたびれたやつが見つける一里塚」(江戸時代の川柳)と記されています。「なるほどねー」


石薬師寺を通り過ぎます。


石薬師宿の本陣、小澤屋本陣に到着です。庄野と石薬師間は僅かにおよそ2.7kmと随分短いです。


周りはすっかり姿を変えてしまった中、残った民家のようです。鰻の寝床とはこのような佇まいの建物を言うのでしょうか。間口が狭く奥に深いです。


東海道が、今では国道1号線に吸収されてしまったことを示す案内板が設置され親切です。


沿道に「とんてき」なる料理を示す看板が目立ちます。最近はあんまり言わないがビーフステーキのことを「ビフテキ」と以前はよく呼んでいた事を思い出しました。多分「とんてき」とはポークステーキのことなのでしょうが、どんな食べ物か気になりお店を訪ねてみましたが、まだ開店前で確認できませんでした。


お地蔵さんを立派なお堂に安置されています。信仰の篤さを感じます。

いかにも旧道といった佇まい。昔のままの幅の道が続きます。東海道のたびを続けて感じるのは、すさまじい勢いで変化していたり、時の流れがゆっくりのようであったり、時代の波はモザイクのように私たちを包んでいるもののようだというものです。旅の続きのお話はまた明日。よろしくお願いします。

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 前回の東海道の旅を続けるため、一昨日歩いてきました。前回足を進めた、亀山宿の先、ちょうどJR関西線井田川駅から旅を続けます。ここで旅を終えたのはお盆休みの8月14日です。

 いろいろと用事が出来ちゃって、同じ場所に立てたのは、昨日になってしまいました。近鉄電車の始発電車で丹波橋を出たのですが、電車を乗り継ぎ乗り継ぎ井田川駅に着いたのは、ようやく8時です。いつの間にやら遠くまで歩けたものだとあらためて思えます。

 昔の旅人は夜明けと共に歩き始めたのと較べますと遅くのスタートとなりましたが、一応今日の目標は約29キロ先の桑名までです。(うーん、ちょっと欲張りすぎかな)

 桑名からは江戸の頃は、宮宿まで七里の渡しで船に乗って旅ですので、江戸時代の人も七里は歩かずに済ましましましたので、(という勝手な理屈で)桑名まで行けたら、名古屋を越えてその先まで到達したことになります。(この桑名の向こうは新幹線を利用したりしないといけなくなる経済的に行き帰りが大変になるなー)

 とにかく歩き始めます。どこまで歩けたか?どんなことに出会ったか詳しくはまた明日以降ーー。

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 今日(実際に歩いた日のは8月14日です)は早朝京都伏見を出て電車・バスを乗り継ぎ先日(といっても5月です)歩いた、土山宿から東海道徒歩の旅を続けてきました。無事鈴鹿峠を越えて関宿に到着しました。江戸時代の頃の旅人の歩く距離からすると、次の亀山宿を越えて庄野宿までは歩きたいところではあります。今日歩き始めた土山からだと29.8kmです。一応今日の目標はそこまでとしますが、どうなることやら・・・。


関宿を出ますと、鈴鹿川に沿って伸びる道が旧東海道です。アスファルトの照り返しこそあるものの歩道には街路樹が生い茂り随分涼しく目にも優しく歩く旅を続けることが出来ます。


 しばらく歩きますと、遠く手前から「立派な一本木やなぁ」と目に飛び込んでくる一里塚がありました。「野村一里塚」と呼ぶそうです。幹周り6メートル、樹齢400年のムクの大木です。400年間じっと腰をすえて(当たり前・・)世の動きを見続けてきたのでしょう。そう考えると迫力を感じます。


京側の亀山宿への入り口京口門跡にやってきました。ここが亀山宿の入り口であることは案内板でしか今ではわかりません。「そう云われると道がほぼ直角に曲がっているなぁ」と言う感じです。宿の出入り口は直角に曲げておくというのが当時のルールだったそうです。また、夜間は宿場の出入り口の木戸を閉めておかれることもあったそうです。


 亀山宿内におしゃれな婦人靴を扱う店がありました。店構えに風格があります。


亀山宿の一部は、このように現在も商店街となっています。ここの喫茶店でアイスコーヒーをいただきました。


 亀山宿を離れる江戸口門跡を示す案内板がありました。やはり道が直角に曲がっている以外にそれとわかるものはありません。


 亀山宿江戸口門跡を離れてすぐ、天守閣を発見しました!!でも呉服屋さんの店舗の屋上に聳え立ってます。周囲から随分目立ってます。この天守閣建築には随分お金も掛かっているのではないでしょうか。こちらのお店に寄って「どうしてこのような天守閣を建てようと思い立たれたのか」聞いてみるべきでした。帰宅後も気になります。


 またまた、一里塚を通過します。和田一里塚と言うそうです。先程の野村一里塚に較べると随分木が細いです。平成5年に復元されたものだそうです。


 旧東海道がJR関西線の井田川駅の真ん前を通過するところまで来ました。「今日は庄野宿まで歩こう」とは思っていましたが、意志弱く「今日は旧東海道第二の難所鈴鹿越えもあったしなぁ疲れたやろ、ここからならすぐに電車で伏見まで帰れるし、この辺で今日の旅は終了してもええよ」との内なる声に素直に従いまして、旅を終えることにしました。本日の歩行距離 約24kmでした。
 近い内に、井田川駅前より、織田の「東海道膝栗毛」を続けたいと思います。 次に歩くときは、当時伊勢湾を船で渡る「七里の渡し」の出た。桑名宿まで歩きたいと思っています。この井田川駅からは31kmぐらいでしょう。「うん、たぶん歩ける?・・・歩けるかもね!」

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 鈴鹿峠を越える国道脇の歩道をしばらく上り続けますと、トンネルの手前で旧東海道に出会います。ここも両脇が茶畑です。


 さらに進むと林間のハイキングコースとなってきます。



鈴鹿峠の歴史を伝える案内板もあります。


 道は峠を越えて下ります。九十九折れのハイキングコースですが、思いのほか道が荒れていて足をすくわれないようそろそろと下りました。


 鈴鹿峠を伝える案内板があります。


 途中から歩きやすいよう石段が設けられています。道の脇には急坂であえぐ馬のために設置されていた水のみ場がコンクリートで再現されています。


 国道1号線の高架をくぐると、林の中をくぐるなだらかな道となります。このあたりは林深く涼しいです。


 国道1号線と並行になるまで道を進みますと、坂下宿間近です。


着きました。坂下宿です。ここが坂下宿であることを示す。案内板はありますが、宿場として栄えた当時の賑わいを感じさせるものはほとんどありません。


 バスの車庫の傍に、当時ここが松屋本陣であったことを伝えています。


 坂下宿を越えてすぐ、懐かしい木造の小学校校舎があります。旧坂下尋常高等小学校だそうです。廃校となった今でも鈴鹿峠自然の家として、利用されているようです。昔の小学校の映画ロケにうってつけです。


 東海道をしばらく下りますと、筆捨山の案内板がありました。絵師が、その山の姿のあまりの美しさに絵にすることをあきらめ筆を捨てたことから、この名があるようです。江戸時代は名勝として知られ浮世絵によく描かれたとのことです。


 関宿にやってきました。ここは随分、宿場の風情があります。ところでこの関から西を関西、東を関東だそうです。それからこの宿では京の祇園祭のように山鉾の巡行の祭りがあるそうですが、そのサイズが随分小さいそうです。だから規模の小さいことの喩えに「関の山」というそうです。。。なるほど、織田は知りませんでした。
 というわけで関宿に到着しました。丁度お昼です。休憩を入れてもう少し東海道をを下ってみようと思います。

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